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「温故集」にみる大洲藩主と家臣25 神山兵左衛門家の出世 [温故集]

 別家を立てた市郎兵衛の長男兵左衛門正英家は、本家を超えて出世していく。初代兵左衛門正英は、泰興の代、慶安2年(1649)近習となり、万治元年(1658)讃岐の丸亀在番の際に、丸亀において新知100石を拝領している。丸亀在番とは、泰興が丸亀藩主山崎治頼の城地没収につき、幕府から在番を命ぜられたものである。明暦3年(1657)の4月16日大洲を出発し、18日丸亀に到着、翌年夏に、丸亀城を京極高和に引き渡して帰城した。先にみた寺嶋家では、この丸亀在番で知行減少しているが、増加した事例もあった。その後加恩100石があり、御用人役となる。泰興が延宝2年(1674)に隠居するが、隠居料の内から100石拝領し計300石となった。延宝5年閏12月泰興が死去した翌年、息子兵左衛門正春に家督を譲っている。泰興により取り立てられ、泰興の死去とともに隠居しており、拝領高から考えても、泰興との関係が深い人物であったといえる。
 2代兵左衛門正春は、延宝6年本知200石を拝領しており、初代兵左衛門が泰興の隠居料から拝領した100石は含まれていない。宝永7年(1710)目附役、享保元年(1716)町奉行、同5年用人役徒小性支配、同14年持筒組御預となる。元文3年(1738)隠居し、息子の兵左衛門正恭が別に拝領した15人扶持を隠居料として改めて拝領した。
 3代兵左衛門正恭は、享保14年部屋住から手廻となり15人扶持を拝領し、元文3年家督相続した。寛保元年(1741)年目付役、延享3年(1746)用人役徒小姓支配、寛延3年(1750)普請奉行となる。2代兵左衛門と同様の役職である。宝暦4年(1754)には、泰温遺腹の男子として延享2年大洲に生まれた富之助(泰武)の部屋住の御守となった。富之助は宝暦2年に中の丸へ引っ越しており部屋住となっていた。同6年には御守が御免となり、用人に戻り持筒組御預となる。
 4代勘四郎正家は、宝暦9年相続したが、幼年であり25人扶持となった。明和3年(1766)近習となり、袖留の儀を行うよう指示があった。袖留とは、江戸時代、男子の元服、女子の成人に達したときに振袖を普通の袖の長さにとどめることであり、通常男子は15歳、女子は18歳に行った。ただし男子は13歳のとき半元服があり、袖留はこの行事の一つともされる(『国史大事典』吉川弘文館)。先の富之助も13歳で袖留をしており、この勘四郎については近習となるにあたり、わざわざ袖留を命ぜられたということは、通常より若かったが職務上必要があったため実施したとも考えられる。そのためまだ幼年なので江戸参勤は御免となっている。安永5年(1776)新知150石拝領し、同9年手廻、天明6年(1786)大目附役、寛政元年(1789)大目附役を御免、同4年50石加増され、兵左衛門家の拝領高に戻った。
 5代久弥正身は、寛政10年亡父の跡式を相続し25人扶持を拝領、文化5年(1808)側勤となっている。
 3代兵左衛門の弟佐太夫正房は、延享3年側勤として新たに召し出され、4人扶持15石給人格となった。これは泰武が兵左衛門に弟がいると聞いて新規召し抱えしたものであった。寛延3年納戸勤、宝暦2年手廻、その後納戸再勤となったが、不幸があり断絶したとある。つぎの泰行の代に佐太夫の名跡を継がせるために、口分田羽右衛門弟を養子として2代神山来助とし、4人扶持15石を与えた。中小性、納戸勤となったが、明和7年同じく不幸のため家が断絶したとある。
 この他、神山家は泰興の代に150石で召し抱えられた神山長左衛門正信家がある。生国は不詳で、一柳監物の家より出たとある。一柳監物は寛文5年(1665)に改易された西条藩一柳直盛と考えられる。この長左衛門家は2代覚平家祐以降100石となり6代続いている。しかし3代長左衛門正兜が側勤と納戸、6代長左衛門正明が定府勤とある以外、職務の詳細を記していない家系である。 これまでみてきたように、神山7家を総計すると1000石20人扶持となる。それは神山彦太夫の3人の息子、神山市郎兵衛の2人の息子と、兄弟の分知によって石高を増やしていった。しかしいずれも順調に継承されたわけではなく、神山覚内家のように郡・河田家と交互に養子を行いつながった家もあった。また市郎兵衛家は弟文右衛門家が継いで、兄兵左衛門は別家を立てた。兵左衛門の弟左兵衛は新規取り立てとなったが断絶するなど、家の継承には一つの法則性があるのではなく、相続の時期、兄弟の人数、藩主との関係などが要因となっている。

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「温故集」にみる大洲藩主と家臣24 弟相続と6代神山政孝 [温故集]

 神山市郎兵衛の長男兵左衛門正英は、泰興の代に別家を立てた。そして弟の文右衛門が市郎右衛門家を継ぐ。3代文右衛門は、泰恒の代にまず近習となり、元服後4人扶持15石、その後父市郎兵衛の家督を相続し100石となった。しかしまもなく死去し、吉田藩の飯淵弥太夫の子を養子とし4代藤兵衛とした。「大洲秘録」には宇和島浪士とある。これが先にみた2代市郎兵衛の隠居扶持拝領の理由であろう。藤兵衛は元禄10年(1697)に家督相続し、15人扶持となる。
 8年後の宝永2年(1705)、蓑島勘兵衛正経の末子が養子となり、5代市郎兵衛政直として家督相続し10人扶持となった。泰統の代に、新知の話があったが藩主の不幸のため中止となり、つぎの泰温の代、享保14年(1729)新知100石を拝領した。その後江戸屋敷の元〆役、郡奉行となり元文4年(1739)に5人扶持が加増された。『大洲秘録』に元文4年から郡奉行とあることから、100石に加えて5人扶持であり、役高的な意味合いがあると思われる。寛延元年(1748)郡奉行を辞退したが、同3年(1750)には再び郡奉行となる。宝暦2年(1752)に息子6代市郎兵衛政孝に家督相続していることから、約50年間加藤家に仕えたことになる。
 「豫州大洲領御替地古今集」(『伊予市誌』)によると、上吾川村の伊豫岡八幡宮に、元文5年(1740)小太鼓が奉納された。その箱の内に奉納者名があり「神山市良兵衛正直」の名がみえる。この小太鼓は、9月神事の藩主の祈祷時のみ使用していたが、大破して使えないので、神殿においているとある。
 6代市郎兵衛は、本シリーズ5「温故集の成立と野々村光周、神山政孝」で詳しくみた「温故集」の跋を記した人物である。その際にも詳述したが一部再録する。市郎兵衛は、寛延元年(1748)部屋住時代に御手廻を命じられ、4人分高15石を拝領した。宝暦2年家督相続後も、引き続き御手廻勤、宝暦11年には江戸元〆、明和5年(1768)郡奉行町奉行兼帯となる。ほぼ5代市郎兵衛と同じ役職である。安永8年(1779)には病気のため役儀御免を願い出たが、保養してそのまま勤めるようにとあり5人扶持を加増され、天明3年には替地での仕事が認められ30石加恩された。同5年町奉行は御免となったが、長柄組御預、郡奉行はそのまま、天明7年(1787)長柄組を御免の後、先手組御預となる。寛政元年(1789)これも御免となるが、普請方支配右組御預となり、同3年、息子の7代定馬政寛に家督を譲る。
 天明3年の加恩は、安永9年麻生水論に関するものではないかと推定できる。この水論では、伊予郡南神崎村の受け取りに際して、5月18日大洲・松山両藩役人が宮ノ下村庄屋宅に会合したが、そこに郡奉行神山市郎兵衛の名がみえる。
 6代市郎兵衛は、「豫州大洲領御替地古今集」によると、下吾川村庄屋日野儀右衛門の系図の話にも登場する。日野家の先祖は、鎌倉時代末期元弘の頃に公家の日野資朝が土佐へ左遷された際の末裔と聞いている。弟日野万五郎が明和8年に上京して、偶然に日野大納言資技の家臣が万五郎の荷札を見て、資技に聞くといかにも土佐との縁があるとのことであった。そして懐かしいので系図にせよということで、「鶴の子のまたやしゃら子の末までも、ふるき例を我世とや見舞」との和歌を拝領し帰国した。これを神山市郎兵衛が尋ね見て後、系図に仕立てるよう巻物を拝領したとある。この日野は安永9年に庄屋になっており、6代市郎兵衛の話である。替地の郡奉行として様々なかたちで名前が残っている。
 その後7代定馬政寛は父の130石10人扶持を受け継いだが、寛政12年には、8代神山良助政人へ家督相続している。

「温故集」にみる大洲藩主と家臣23 神山市郎兵衛と藤樹門人森村太兵衛 [温故集]

 神山市郎右衛門家は、これまでみてきた神山彦太夫の一族とは違う別の神山家である。初代市郎右衛門は、美濃生れ、貞泰の黒野時代に召し出された。しかし美濃出身で黒野で召し抱えられたことから彦太夫の一族の可能性はある。黒野近くの橋詰から出発した加藤家は光泰の息子貞泰の代に、元の所領の近くに大名として戻ってきた。そのため在地に居住していた家臣の一族を改めて雇用したとも考えられる。神山市郎右衛門は100石、大洲へ国替え以降、摂津池尻陣屋で大坂御用を勤めた。この市郎右衛門のことは、「大洲藩の飛地、摂津池尻村1」で紹介したが、もう一度概略をみておきたい。「温故集」1によると、米子から大洲へ国替えした際に、永田という藩士が屋敷の措置に腹を立て藩を出奔した。その行為に対して貞泰は怒り、当時池尻南野陣屋にいた神山喜学に、永田を大坂で見た際には討ち取るように書状を送ったとある。この神山喜学が初代市郎右衛門と考えられる。
 市郎右衛門の子2代市郎兵衛政久は、米子生まれ、貞泰の時、幼年で近習となり喜内と呼ばれた。その後家督100石を相続し、泰恒の代に隠居した。しかし極老になった上に、後述するが相続の不幸せがあり、代々勤めてきた家が不憫であるので、隠居扶持5人扶持を拝領している。
 この市郎兵衛がつぎのような「温故集」の話のなかに登場する。森村太兵衛が替地の代官であった時に、小さな数であったが勘定が合わないことがあった。以前、別人の勘定が合わない時に、そのことを家老の大橋作右衛門が泰興へ報告した。泰興は「勘定は元より作りものにて合も有合ぬもあり」ということで済んだ。今回も同じだろうと思い、大橋が泰興へ報告したところ、泰興は機嫌をそこね、「王陽明流の勘定は聞度もなし」として、森村へ暇を出した。王陽明流というのは、陽明学を学ぶことであり、森村は中江藤樹の門人で志のある人だった。実は森村の同役であった神山市郎兵衛が、以前森村に私欲があると内々に泰興へ伝えていたことが原因ではないかと、家臣たちは噂した。
 「大洲秘録」には、森村太兵衛が替地上屋敷代官、神山市郎兵衛が替地中屋敷代官とあることから、実際に同役であったと思われる。『藤樹先生全集』44によると、藤樹の門人で森村という名前は、仲敬・伯仁などがあるが、太兵衛という名前はない。藩士としては森村嘉右衛門と二家あると記すが、いずれも藩を離れている。同じく『藤樹先生全集』では、「中江先生伝」に神山市郎兵衛道長とある藤樹の門人を紹介している。名前が違うが通称と時期が一致するため2代市郎兵衛と推定している。この市郎兵衛は幼少から藤樹に学び、藤樹が大洲を致仕した際にも長浜まで見送ったとある。これらの記述から、森村と市郎兵衛は同役であり藤樹の同門でもあったといえる。

「温故集」にみる大洲藩主と家臣22 神山・郡・河田家の養子 [温故集]

 この福山藩水野家家中三村家からの養子が、神山家5代吉充であり、泰恒の児小姓から、元服後中小姓となり、泰温の代に新知として100石を拝領した。その後目附役、大坂留守居役を勤め、延享2年(1745)50石加増され150石となった。寛延4年(1751)在職中に大坂で死去し、実子の安左衛門が幼少のため、再度養子となった。この養子6代左内も河田源右衛門の弟であった。養父吉充から100石を家督相続しているが、加増50石分は養子のためか削除されている。左内は、泰武が部屋住時代の御側勤、納戸役を勤めたが、明和2年(1765)に、兄河田源右衛門が病死し実子がないので養子として、実家へ戻った。この左内は、河田助右衛門正福として実家250石を継ぎ、天明2年(1782)物頭格、同5年長柄奉行、寛政3年(1791)先手組物頭となった。7代安左衛門吉和は、形式的には6代の養子であるが、本来5代の嫡子であり、100石を家督相続し御側勤となった。8代九郎右衛門吉亨は再び養子であり、郡市兵衛の二男であった。安永4年(1775)養父の跡を15人扶持で相続し、翌年御側勤となった。5代死去後、約20年間で3人も当主が交替したため、15人扶持にまで減少した。
 このように神山覚内の家は、4~6代の養子を河田家、8代を郡家と養子の多い家である。しかし「藩臣家譜」を調べてみると、この3家は交互に養子縁組みしていることがわかる。郡家は伯耆出身、初代作兵衛は元米子藩主中村一忠の家臣である。中村家廃絶直後に米子へ入った加藤貞泰に仕官している。その郡家6代郡市兵衛正照は、河田助右衛門三男の治左衛門であり、8代郡嘉十郎正得は、8代神山九郎右衛門の長男であった。一方の河田家は、初代助右衛門貞高が、元阿波国蜂須賀家の家中であり、郡家と同じく他家中からの召し抱えであった。貞高は、泰興の代に嫡男泰義の部屋住の児小姓に召し出され、元服後は中小性となった。泰義は寛永6年(1629)年生まれ、3代藩主候補であったが、寛文8年(1668)40歳で死去し、藩主は泰義の嫡男泰恒が継いでいる。
 8代神山九郎右衛門は6代郡市兵衛の二男であり、郡市兵衛は4代河田助右衛門の三男、4代河田助右衛門は6代神山左内と、この3家は養子縁組によって密接につながっていた。

「温故集」にみる大洲藩主と家臣21 神山家の養子と福山藩水野家 [温故集]

 神山彦太夫の次男百兵衛は、松久百兵衛と名乗り、生国美濃、貞泰の代に父とは別に新知150石を拝領した。百兵衛は直泰の新谷分知に伴う家臣となったが、寛永19年(1642)新谷へ移る前に大洲で死去した。そのため「温故集」の「新谷御分の人」には、「神山百兵衛、新谷子孫なし」とある。しかし、その後大洲藩士として、百兵衛家は続く。2代十左衛門光広は、泰興の代に児小姓として召し出され、後に先手組預となる。時期は不明だが数度加増の後300石となった。泰恒の代に隠居したが、そのときに隠居料として50石拝領する。
 つぎの3代実子安太夫は夭折、4代養子左内は、泰恒の代に光広とは別に児小性に取り立てられたが、故障があり御暇となった。そして同じく養子で江戸牢人であった八右衛門重成が5代となり、泰恒の代に、光広の隠居料50石を引いた250石拝領となった。その後、6代八右衛門光尚も、泰恒の代に250石で家督相続し、泰統の代に長柄組預、泰温の代に先手組となる。7代直三郎光雄勝左衛門も同じく、泰温の代に250石で家督相続し、泰武の代に長柄組預かりとなる。
 続く8代助右衛門充政は、安永8年(1779)家督相続し、寛政10年(1798)大目附、同12年長柄組を預けられたが、病気のため文化元年(1804)12月7日隠居した。9代は名前が不詳であるが菊山玄渓の養子が、文化2年4月24日家督相続している。次男百兵衛家は、3代から短期間に交替して相続の危険性が生じたが、江戸浪人など藩外からも養子を入れ順調に家督相続し、ほぼ各代が長柄組、先手組預かりとなっている。
 神山彦太夫の3男覚内は、生国美濃、貞泰の代に父とは別に新知150石を拝領した。2代安左衛門は、彦太夫の5男、覚内の弟であり、つぎの3代弥五八といずれも泰興の代に家督相続した。しかし弥五八が病死し、男子がなく断絶し、安左衛門は、5人扶持となった。その後、4代として才蔵貞幸を河田助右衛門貞高の家から迎えた。才蔵は泰統の部屋住時代からの児小姓であった。藩主より弥五八の名跡を相続するように命があり、中小性となったが、江戸で病死した。覚内家は、再度断絶の危機が起こった。それに関して実家の河田は残念に思ったが、当時中小性の養子は認められていなかった。しかし河田は、事前の策として備後福山藩水野美作守の家来三村右近近澄の二男を、幼少時に神山と名乗らせて養子としていた。
 この水野美作守は、福山藩2代藩主水野勝俊(1598~1655)である。実家の三村右近近澄家は、もと備中三村氏の一族で、三村家親の弟親成を祖とする。三村家は備中国人として毛利元就についたが、三村本家が織田に寝返った際に、親成は毛利家に残った家である。諸国を放浪していた水野勝俊の父勝成を助け、後に息子が水野家に使えた。この近澄は大寄合(1000石)を務めていた親澄と考えられる。
同じように水野家、勝成の家中から取り立てられた家臣として、泰興の代の八田吉左衛門正忠(100石)がいる。また水野家に関して「温故集」に記事がある。元禄11年(1698)水野家が断絶した際、大洲からも町人が福山へ行き武具を数多く調達した。現在城の武庫の番具足、納戸の黄羅紗の羽織もそのときのものである。この黄羅紗の羽織は、歩行小性の番羽織として数多くあると記す。養子などの人的な交流ではないが、藩取りつぶしの際の状況がよくわかる内容である。なお水野家は翌年名跡取り立てにより、減封されたが、能登西谷藩1万石の大名として復活している。覚内家も藩外の水野家家中三村氏から養子を入れ、家督相続している。

「温故集」にみる大洲藩主と家臣20 神山彦太夫と参勤交代 [温故集]


 神山家は、分家をして石高が増加していったが、その歴代の当主を「藩臣家譜」でみていきたい。神山庄兵衛の長男2代彦太夫吉明は、美濃生まれ、寛永12年(1635)没とある。庄兵衛が光泰の所へ逃げ込んだ際に、ともに連れられていた可能性がある。石高は150石を貞泰の代に拝領したとあることから、黒野、米子時代に家督相続している。この彦太夫の次男百兵衛150石、三男角内150石と、それぞれ分家して独立した。のちに断絶したが四男八左衛門も100石拝領していることから、四兄弟計550石であった。
 長男吉明の跡を継いだのは、3代彦太夫吉次であった。吉次は養子であり、森右近大夫忠政の家来鈴木作兵衛の次男であった。生国は伯耆、慶安4年(1651)に82歳で死去しているが、養子になった時期は不明である。森忠政は美濃の出身で、その後金山城主となり、慶長5年(1600)に信濃川中島、8年には美作津山藩主となる。加藤家と森家はおなじ美濃出身で、その後の黒野と金山・川中島、米子と津山、いずれも近隣の藩であり、親類などの関係から養子となったと考えられる。吉次は、泰興の代に家督相続し、養子であったが格別のはからいで250石となった。泰恒が初入した際に御用人となり、その後50石加増され300石となった。泰恒の初入りは、藩主就任前の部屋住み時代の延宝元年(1673)4月である。隠居後も15人扶持を拝領した。
 この彦太夫吉次と思われる人物が、「温故集」に登場する。泰興が参勤交代で、ある宿の本陣に泊まろうとしたが、前夜に宿泊した別の大名がまだ出発していなかった。そこで使者として派遣されたのが、神山彦太夫と菅平太夫であった。泰興は、彦太夫達へ、早々に出立して欲しい、それができないなら相宿するとその大名へ伝えるよう指示した。両人はいずれも「尻からげにて槍を抜身にして自ら提」げて、本陣の玄関に赴いた。すると大名は先ほど出立しており、裏道を通り川の途中で泰興一行と出会った。そのとき家来は、みな槍を体に引きつけて、勢いよく供をしていた。なかでも林彌左衛門は、鉢巻をして槍を持ち、かなり威勢がいいので、泰興はそれをみて「彌左衛門は弁慶が瘤ともいはるべきもの」と賞めたとある。いずれも藩士達の勢い盛んな様子に、別の大名家は恐れていたという、大洲藩士の武勇を誇る内容といえる。
 彦太夫吉次の跡を継いだのは、4代勘兵衛吉房で、江戸留守居、御先手組預かりを勤めた。勘兵衛は叔父八左衛門の養子であったが、彦太夫家をつぐ者がいなくなったため、実家に戻り家督相続した。つぎの5代彦太夫春純は養子であり、泰恒の代に200石で相続し、普請方となった。その後、泰温の代に50石加増され、御先手組預かりとなった。続けて6代武太夫吉貞は普請奉行、7代梅之進吉孝は泰衑の代に家督相続したが、死去したため、春純五男の8代彦太夫吉純が150石で家督相続した。彦太夫吉純は 御手廻勤、作事奉行、普請奉行、長柄組預かり、御先手物頭格となった。その子9代登平吉辰は享和元年に家督相続し、翌年から御納戸勤となった。最初の養子であった3代彦太夫吉次の際には100石増加したが、8代彦太夫吉純の際には100石減少した。

「温故集」にみる大洲藩主と家臣19 神山家の展開、篠田庄兵衛と光泰 [温故集]

 これまでみてきた加藤家家臣は、加藤家の所領石高の減少や世代交代に伴い、知行減少した家であった。これとは逆に分家により展開し、知行が増加した神山家を紹介する。神山家は、林家や寺島家と同じく加藤家の最古参の家臣である。『大洲秘録』が編纂された18世紀中期、神山家は7家存在した。光泰の橋詰時代に仕官した篠田庄兵衛系が3家、貞泰の黒野時代に仕官した市郎右衛門系が3家、泰興の時代に仕官した長左衛門系1家である。これらの家は同姓であるが、『大洲秘録』では別系図で記しているので、親族であったかは不明である。本シリーズ5「温故集の成立と野々村光周、神山政孝」で、「温故集」の跋を記した神山政孝は市郎右衛門家である。
 篠田庄兵衛系は、庄兵衛の長男家武太夫250石、馬廻、次男家直三郎250石馬廻、蔦、三男家九郎右衛門100石、大坂勤とあり、菩提寺は長男・次男が龍護山、三男が 徳正寺と違うが、家紋はすべて蔦である。3家の石高を合計すると600石となる。
 市郎右衛門系は、市郎右衛門の長男家兵左衛門200石、用人、兵左衛門の弟右七15人扶持、近習、いずれも菩提寺大蓮寺、家紋は菱に右一つ巴、次男家市郎兵衛100石5人扶持、真宗光源寺、家紋左巴と違う。3家の石高を合計すると300石20人扶持となる。
 長左衛門家は100石、納戸、菩提寺寿永寺、家紋は丸に井桁である。これら神山家7家を総計すると1000石20人扶持となり、加藤家一族、家老大橋家以外では石高の多い家である。
 まず篠田庄兵衛家についてみていきたい。この庄兵衛は「温故集」にも「神山武太夫が祖、本は篠田氏にて庄兵衛と称す」とはじまる記事がある。庄兵衛は、事情により美濃で刃傷沙汰を起こし、妻をつれて直接光泰の所へ逃げてきた。もともと光泰の筋目の家でありかくまわれた。そして元々住んでいた所が神山という名であったので、それを氏として、家臣となったとある。墓は法華寺の頂、知らぬ所にありとまとめる。篠田庄兵衛は、もともと光泰と縁故があったが、殺人のため光泰のところへ逃げ姓を変えて家臣となった。 この一連の内容は「藩臣家譜」にも詳しいが、「温故集」に記されていない内容をまとめる。当時、庄兵衛は牢人であり、それは光泰が今泉村橋詰にいた時期のことであった。妻ではなく子供を引き連れて光泰の所へ逃げ込み、名前とともに紋を変えたとある。この時に光泰に「御カコイ置」かれたか、家来になったかは不詳で、充行なども伝わっていない。庄兵衛は子孫に対してこの光泰の厚恩を忘れてはならないと遺言し、代々申し伝えている。しかし書付はなく、すべて口伝であると締めくくっている。他の史料では、庄兵衛は吉正といい、武太夫の息子、元和5年(1619)2月19日に没しているので、大洲以前の貞泰の米子時代である。

「温故集」にみる大洲藩主と家臣18 知行減少と「格別之家筋」 [温故集]

 「藩臣家譜」によると、寺島勝政は、その後朝鮮出兵の際光泰に従い、その他数々の戦功があったが不分明なので略すとある。先述したが光泰の甲斐時代には2000石、与力10人足軽20人の御先手であったが、貞泰の黒野時代には500石に減少したと記す。勝政は、戸市、藤蔵、晩年に十左衛門と何度か改名しており、『北藤録』によると、慶長19年(1614)大坂の陣の左備に、550石寺島藤蔵とある。貞泰への世代交代の後も、重要な家臣として位置づけられていた。
 その後、長男藤蔵に300石、二男助十郎に200石分知され、助十郎は新谷藩に仕えることとなる。元和9年(1623)直泰への1万石分知の際、直泰付きとなった藩士は、「佐伯本加藤家御伝記」によると、400石から50石まで27人の名前がある。後の中江藤樹(中江与右衛門100石)も含まれているが、助十郎と同じ200石は9人いる。新谷寺島家は、4代寺島武右衛門が御用人となり、150石と減少している(「大洲秘録」)。
 大洲寺島家は、3代半右衛門が、寛永17年(1640)高松在番、大目付を、4代利兵衛が、明暦3年(1657)丸亀在番を勤めるが、この時200石となった。知行減少の理由は不明だが、利兵衛は、平野勘右衛門の5男で養子であったことが、要因かもしれない。5代彦右衛門は、江戸聞番、江戸留守居役を勤めたが、6代利兵衛150石、7代藤蔵の代に100石に減少する。いずれも山田三右衛門、清左衛門親子の息子が養子となり、藤蔵は「幼年ニ付家督拾五人扶持」とあることから、やはり家督相続の際の幼年養子などが理由となり、知行が減らされた。藤蔵は、加藤泰温の代に新知100石を拝領し、近習、納戸役を勤める。8代利兵衛も林三郎右衛門二男が養子となり、同じく「幼年ニ付家督拾五人扶持」、加藤泰候の代、安永5年(1776)手廻勤、9年「家筋被思召新知百石」と、先祖の家筋から新知100石を拝領した。
 9代戸一郎も徳永与市右衛門二男が養子となったが、加藤泰済の代の寛政6年(1794)家督相続し、12年~文化3年まで江戸勤、その後手廻、文化4年、文政4年(1821)に町奉行を勤める。そして文化5年6月には「格別之家筋」のため50石の加増となった。同年5月17日に泰済は大洲へ帰国しているので、その際の加増であった。その後、おそらく10代と考えられる半右衛門は、天保3年(1832)郡奉行となる。
 寺島家は、光泰が今泉村橋詰庄から出た際の御供3人の内の1人で最古参の家臣といえる。大洲入封当初500石であったが、新谷分知の際に分家し300石、また養子が続き幼年を理由に知行が100石まで減少した。減少理由は、その他の家臣と同じであるが、一方で光泰時代の横山城他の功績から、「格別之家筋」が重視され知行が増加した。「温故集」では、特別な事蹟は記されていないが、江戸留守居、町奉行、郡奉行等、中級藩士として家が継承された。

「温故集」にみる大洲藩主と家臣17 加藤家歴代の事蹟と「加藤家年譜」 [温故集]

 近江横山城の戦いに関して、加藤家歴代の事蹟を記した「加藤家年譜」を追加しておきたい。内容は、『北藤録』「加藤光泰貞泰軍功記」とほぼ同じである。元亀2年(1571)9月秀吉は竹中重治を横山城留守居として岐阜へ行き、その際、浅井方が攻撃を仕掛けた。重治は城門を閉ざしたが、光泰は野一色助七と闘い傷を負った。その危急を寺島戸一郎勝政が救い、具足と長刀を拝領した。秀吉は光泰へ恩賞として、北郡の内磯野村知行700貫、与力10人を与えた。与力の内、家臣として続く6家の名前を記している。藩内、加藤家の歴史書であるため、家臣寺島勝政が登場している。そしてこの記事は、「加藤家年譜」において、具体的な家臣の功績が記された最初のものであった。
 加藤家の事蹟に関しては、これまでも参考にしてきた『北藤録』(宝暦9年完成)がある。この二つの史料は、期間、記述方法が相違している。『北藤録』は、期間を光泰より以前の歴代から6代泰衑までとし、記述を長文の物語形式でまとめ、史料本文を引用する方法である。一方で「加藤家年譜」は、期間は、天文6年(1537)の光泰誕生から、最後の藩主泰秋の明治2年(1869)12月まで記される。記述は、一部光泰、貞泰期には長文があるが、その他は箇条書きが多い。
 「加藤家年譜」は、桜井久次郎『大洲新谷藩政編年史』のなかで1348回引用され、第2位の『徳川実紀』270回と比較しても、群を抜いて多い。史料の全引用数6249回の内、5分1以上である22%を占める。また引用年は、加藤家の大洲入国元和3年(1617)から明治2年(1869)まで、その内225年を占める。年譜という史料の性格上、当然のことといえるが、『大洲新谷藩政編年史』は、「加藤家年譜」を中心にまとめられたといってもよい。
 この「加藤家年譜」という名前は、桜井久次郎が命名した可能性がある。桜井氏の写本である「加藤家年譜 一」(大洲市立図書館所蔵)をみると、「加藤家譜」(伊予史談会所蔵)を昭和40年(1965)に写している。「加藤家譜」は、書写した西園寺源透の叙によると、原本は加藤家所蔵の史料であった。この史料は、東京の加藤邸にあり、大正12年(1923)の関東大震災の際、家従力石安夫氏が救出した。昭和6年(1931)5月、力石氏が大洲帰還の際に、西園寺氏が借用謄写したとある。原本は、竪1尺1分、横7寸9分の大本、上中下3冊であった。内容は、6段にわかれ、年号干支、藩主の事蹟、一族や親類、家老、制度、家中や雑事に区分されていた。これを西園寺氏が、年月日順に変更し、「加藤家譜」と命名したとある。この伊予史談会の「加藤家譜」書写に関しては、桜井久次郎「加藤家譜の研究」(『伊予史談』226.227、1977年)に詳しい。
 そして桜井氏は、西園寺氏の写本の題名に「年」という字を追加し、加藤家本との校正、研究内容を踏まえた考証と考えられる書き込みを各所に施している。西園寺本を書写しつつ、氏の研究してきた内容から校訂していったことがわかる原稿である。

「温故集」にみる大洲藩主と家臣16 光泰と寺島家の出世のきっかけ [温故集]

 この横山城の戦いは、加藤家以外の資料で確認すると、実際には5月であり、秀吉が岐阜へ行ったのではなく、近隣の味方の救助に駆けつけ留守にした時に起こっている。『大日本史料』によると、5月6日に浅井井規が近江国鎌刃城の堀秀村を攻め、それを横山城の木下秀吉が救援した戦いであった。近世前期成立の『浅井三代記』にも光泰の戦いが記される。光泰は、野一色介七と「火花をちらしてたゝかひ」、介七の打太刀で光泰の「ひざの口をぞわつたりける」と、『北藤録』と同様の記述がある。しかしその後、介七が光泰の首を取ろうとした時、苗木左介が助けに入り身代わりに首を取られたとある。この苗木左介は、『北藤録』の「一書」という別の説として登場する。左介は、光泰と兄弟の契約をし、そのため城の塀の上から飛び降り助けに入ったが、高いところから降りたため目がくらみ討たれたとしている。
 寛延4年(1751)成立の「加藤光泰貞泰軍功記」は、ほぼ『北藤録』と同じであるが、竹中重治が門を開け助けたので敵が引いていき、光泰は九死に一生を得たとある。その後は勝政が肩にかけ救助している。幕府へ提出した「寛政重修諸家譜」には、秀吉が長浜にある時と後の時代の状況となり、朝倉義景が攻めると敵を誤記している。しかし光泰が勇敢に戦い傷を受け、竹中重治が兵を出して助けたとする一連の流れは同じである。幕府へ提出した公式な系譜集であるので、家臣である勝政の名前はない。
 この後、光泰は足が不自由となり、少し脚跛(ちんば)になるとある。この足の不自由については、『北藤録』には後日談がある。時代は不明であるが、秀吉が伏見城において光泰へ料理を下賜した際、秀吉は自ら引物を光泰へ渡した。光泰は、頂戴しようと立ち上がったが、この横山城の疵で足が不自由となり、膳をひっくり返し料理が散乱した。それを見て笑った秀吉の近臣に対して、秀吉は光泰の足の不自由は武門の崇敬すべきことと叱ったとある。秀吉の伏見城入城が文禄2年(1593)9月、光泰の朝鮮での死去が同8月なので、大坂城、聚楽第での話か、全くの創作の可能性もある。
 加藤家において、この横山城の戦いは、光泰の合戦、負傷、功績の様子が伝えられ、また地名のある知行地、与力の名前など具体的な恩賞内容が記され、光泰にとって出世の発端となる合戦と位置づけていた。その合戦で主君光泰を救助した勝政の功績は、寺島家にとっても出世の発端となった。
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